おはようございます。
昨日に続き今日も暖かいようですが、
またその後は寒さが来るようなので
寒暖差に気を付けないといけないですね。
今日のテーマは『自力本願』。
この言葉はそもそも高校生の頃の信念でした。
予備校講師である元井太郎氏が念仏のように唱えたからです。
(当時、崇拝しておりました)
そして“受験レベル”までは“ほぼ”自力本願で、
がむしゃらな努力で何とか目標に到達できます。
あえて強調したのは、
そのレベルですら外在的要因が存在するからです。
(たとえば、倍率や得意・不得意分野、そして当日の環境)
受験のさらに先のレベルになってくると、
徐々に自分がコントロールできる範囲が減ってきます。
(就職、結婚、出世…。)
それにも関わらず、幼少期や青年期の頃の感覚で
「自分さえ努力すれば道は開ける」と考えていると、
壁にぶつかります。
自衛隊にいらっしゃった下園さんという方は、
それが現代の鬱病に繋がるという指摘をされています。
そんな自分の力が及ばない、
全くコントロール不可能だという状況になった時、
人はなにかにすがりたくなるものです。
それはギャンブルかもしれません。
またはお酒かもしれません。
はたまた女かもしれません。
(いわゆる飲む・打つ・買う)
そして古代における卑弥呼の時代から
脈々と人々を魅了してきたのが宗教です。
日本国憲法20条1項前段は、こう規定しています。
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
僕自身、ニッチモサッチもいかなくなった時、
宗教に足が向きました。
ここでは憲法を尊重する精神から、
宗教について否定も肯定もしません。
ただ事実としては、僕は熱心に活動をすることもなく、
宗教に対して自ら身を引くことになりました。
結局のところ、初心である“自力本願”に
戻ってきたわけです。
努力したからといって必ずしも報われないかもしれません。
でも棚ぼたを期待して、ただ手をこまねいているより、
自ら道を切り開いていく方がよっぽど楽しいしワクワクできる。
また本で得た知識や、宗教でどんなにいい教えをもらっても
自分自身で使いこなして知恵へと昇華しなければ
何の意味もありません。不毛です。
ただ、ここで自力本願に戻ったからといっても、
上に述べた“幼い努力論”に回帰するわけではありません。
自分の力で如何ともし難いことは受け入れ、
少しでも動くことで外在的要因の寄与度に影響を与える。
これが28歳の今思う、自力本願です。
暗中模索といえるほど暗くはありません。
少しずつ光が見えてきています。
その光に向かって歩いていくのは他の誰でもなく、
この僕、秀虎です。
Bonafide Law
Hustler
秀 虎
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